言葉の森へ、ぶらっと。(3)

 前回のLectureで、「枕詞」を「枕言葉」と表記しました。PCのキーボードを打ち損じたのです。    

 私はイージーワードを使って文章を書いているのですが、”校正、畏るべし”です。『広辞苑』には「枕詞」と「枕言葉」の両方があり、間違いではないのですが、やはり「枕詞」がいいと思います。お詫びいたします。

 さて「枕詞」。たいてい中学校の国語の時間に初めて習うと思うのですが、私はいまだによく分かりません。分かったようで分からない、と言いますか…。『広辞苑』には次のように説明されています。「昔の歌文に見られる修辞法の一。特定の語の上に掛かって修飾または句調を整えるのに用いられる言葉。働きは序詞に似るが、五音以下で慣用的な用法である点に特徴がある」というのは、まぁ、誰もが知っていることなのですが、”なぜ”なのか? なぜ特定の語に「枕詞」を使うようになったのか? この疑問に明快に答えることはできるのでしょうか?

 いくつかの書物に目を通しましたが、いまひとつ歯切れがわるくスッキリしません。例えば「しきしまの」は大和に、「やくもたつ」は出雲に、「あをによし」は奈良に、「たたなづく」は青垣に掛かる枕詞です。これらの例を見ると、枕詞はその土地の景観や風土的なイメージ、伝承されてきた地域的な特性と関係があるように思われます。あの吉本隆明(私は20世紀最高の思想家の一人だと思ってる)は、『初期歌謡論』の中で、賀茂真淵や折口信夫の考え方にふれながら、枕詞を「同格の異語を(畳み重ね)たもの」なのでは…と、説明されています。つまり「異語」の「畳み重ね」が枕詞、ということです。

 スサノオノミコトの「八雲立つ出雲」」というフレーズを例に考えると、枕詞「八雲立つ」と地名「出雲」は同格であり、「出雲」の”異音同義”である「八雲立つ」という言葉を重ねることで、その土地の視覚的なイメージを重層的に膨らませることができる。そのレトリックが枕詞というわけです。これはかなり理解しやすく、説得力もある考え方だと思います。

 もう一つ、枕詞「あをによし」を『広辞苑』で見ます。「あおに-よし【青丹よし】アオ…〔枕〕(ヨもシもともに間投助詞)「奈良」「国内(くぬち)」にかかる。奈良に顔料の青丹を産出したことが秘府本万葉集抄にみえるが、当時の事実か伝説の記録か不明。一説に、「なら」に続けたのは顔料にするために青丹を馴熟(なら)すによるという。」とあります。秘府本というのは、朝廷の書物庫などに保管されている貴重な本のことですが、率直に言えば、いまひとつ納得しにくい説明です。数年前、奈良の友人と古寺を見て廻ったとき、次のような説明を聞いたことがあります。「昔、奈良の多くの寺院は、建物が青と朱色に塗り分けられていた。青(あお)は窓の枠などに塗られ、丹(に)というのは柱などの朱色(水銀の赤色)のこと。青と朱に彩られた寺院がいっぱいある奈良の都は美しいよ!」が「あおによし」の意味だというのですが、どうでしょう? 解釈には諸説があり、特定はできません(もっと勉強しないと!)が、とりあえずは上記の友人から聞いた話が私にはスッキリしているように思えます。

 「あをによし 奈良の都は 咲く花の 薫(にほ)ふがごとく 今盛りなり」という万葉集の歌(小野老朝臣/オノノオユノアソミ)は有名ですが、この「あをによし」という言葉が喚起するイメージが、天平文化が絢爛と花開き、美しい寺院が建ち並ぶ平城京のイメージに重なる。私はそう感じるのですが、どうでしょうか?小野老はこの歌を詠んだ当時、大宰府(筑前に置かれた地方官庁))で大伴旅人(長官)に仕えていました。折りにふれ都大路の賑わいを想い、懐かしさがあふれ、詠まれた”望郷の歌”でしょうか。歌体は美しい風姿を持っていますが、地方官吏の悲哀もまた秘められているわけです。*ちなみに「にほふ」はもともと「色が映える」という意味。『万葉集』はご存じのように、奈良時代にまとめられた全20巻・4500余首からなる日本最古の歌集。「相聞歌」「挽歌」、宮廷祭儀などの際に詠まれた「雑歌」の3部類が中心。作者は天皇・貴族から、東歌や防人の歌を詠んだ農民・庶民まで、当時の日本のあらゆる階層におよんでいると言っていいでしょう。撰者は20卷の大半が大伴家持(718?~785)です。758年、彼は因幡(鳥取県)の国守になるが、その翌年正月に詠まれた歌で『万葉集』は終わっています。
「新しき 年の始の 初春の 今日降る雪の いや重け吉事(よごと)」

 今回のLectureは「枕詞」に引っ張られて「万葉の森」へ足を踏み入れてしまいました。枕詞については難解な論述が数多くありますが、ここでは煩雑になるのを避けて、先記した『初期歌謡論』(吉本隆明)を読んでいただきたいと思います。

 Lecture(2)で触れましたが、日本の抒情詩のルーツは「相聞歌」(愛の歌)では…というのが、話しの始まりでした。で、『古事記』や『万葉集』の「言葉の森」に足を踏み入れざるをえなかったのですが、このまま行くと「言葉の森へ、ぶらっと」の主旨からどんどん遠ざかるようです。なんだか高等学校の古文の時間みたいになってしまい、面白くありません。前回も反省したのですが…。できるだけ早く近・現代の詩人や小説家の「言葉の世界」に行き着きたいと思っています。でも、もうすこし我慢してください。困ったことに、『万葉集』の巻一の一は、雄略天皇の求婚歌です。国土統一の英雄と讃えられた天皇の「愛の歌」から、『万葉集』は始まるわけです。雄略天皇 は別名「大泊瀬幼武命(オオハツセワカタケノミコト)」。西暦463~464年頃(?)に、2人の兄(皇子)らを滅ぼし、泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)に即位。大伴・物部を中心とした武力を背景に、「葛城系」の勢力を排除して天皇となった人です。朝貢を欠く新羅を征伐するため大軍を派遣したり、勇猛(?)な天皇だったようです。5世紀後半には彼の大和朝廷の実権は日本全土の大半に及んだと言われています。

雄略天皇の求婚歌——-
     籠(こ)もよ み籠持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串持ち 
     この岡に 菜摘ます子 家聞かな 名告(の)らさね そらみつ 大和の国は
     おしなべて 吾こそ居れ しきなべて 吾こそ座(ま)せ
     吾こそば 告(の)らめ 家をも名をも

——-いかがですか。「み籠」の「み」は美しい、あるいは良い、といった意味の修飾語。「掘串」は土を掘る箆。「そらみつ」は大和の枕詞。「おしなべて」「しきなべて」は「すべてを」「すみずみまで」というほどの意味。「俺が大和の大王なのだ」と若菜を摘んでいる娘たちに求婚しているわけです。天皇は最初に娘たちの籠と箆を「とてもいいね」と褒めてから、口説きにかかります。まず褒める。昔も今も女性を口説く基本ですね。そして「家は?」「名前は?」と聞いていますが、古代では、名前を尋ねるのは求婚を意味していました。最後に、自分は国の統治者であると宣言し、「俺の家と名を告げようか」と迫っています。現在の私たちにも通じる、なかなか巧みな求愛のプロセスです。

 でも、私個人はこの歌謡があまり好きではありません。天皇だから仕方ないのでしょうが、権威的すぎるからです。もっとも天皇の実作ではなく、伝説的歌謡と考えられるのですが…。しかし、たたなずく青山に囲まれた泊瀬朝倉、その春の野で若菜を摘む美しい乙女たちの姿と威風堂々とした天皇の姿。このイメージはちょっといいですね。

 泊瀬朝倉。現在の桜井市初瀬(はせ)。長谷川をはさんで北には三輪山から初瀬山にかけて小高い山並みが、南へ忍坂山(おさかやま)、鳥見山(とみやま)へとつづく細長い平野。黄色い菜の花が咲き広がる春の野、針葉樹の緑濃い山々と鮮やかな新緑が畳み重なる「山隠れる 倭し 美し(うるわし)」の古代の風景の中に、菜摘みを楽しむ少女たちと大王を配置して、演出家になったつもりで動かしてください。私は少女の一人に若き日の「原 節子」を、天皇には雄々しさより、立ち姿の美しい「池辺 良」のような役者を配し、能を舞うように動かしてみたい…など考え、さらに”求婚物語”なるシナリオを書きはじめたりしたことがあります。残念ながら完成しなかったのですが。それはともかく、機会があれば近鉄大阪線の朝倉駅で降りて、長谷川を遡る道を、長谷寺へと歩いてみてください。古代の倭がよみがえる懐かしい風景です。

 私は一時、朝倉駅の近くの忍坂(地の人たちは、オッサカと発音する)に住んでいたことがあります。余分な話ですが、その頃、現在の妻と勤めていた学校で知り合い、結婚することになり、式も披露宴も鳥見山の鳥見神社で行いました。鳥見神社のすぐ前に私が行っていた小学校があり、いろんな思い出があります。でも、このへんの話はまた別の折に——-。

 万葉の森へ戻りましょう。万葉集というアンソロジーの編集長は大伴家持。でも、スターは誰かと聞かれたら、額田王、山上憶良、天智天皇、持統天皇、否やっぱり家持、などと名前が挙がるでしょうか? いろんな意見があっていいのですが、私はなんといっても柿本人麿呂です。独断・私見です。ごめんなさい。泊瀬朝倉にちなんで話しますと、求婚歌ではありませんが、次の歌は人麿呂が亡き人を偲んで詠んだものです。

 「隠口の 泊瀬の山の 山の際に いさよふ雲は 妹にかもあらむ」土形娘子(ひじかたのおとめ/伝未詳)を火葬した際の挽歌です。「こもりくの はつせのやまの やまのまに いさよふくもは いもにかもあらむ」と読みます。「こもりく」は泊瀬にかかる枕詞。隠れ里のように見える奥深い泊瀬峡谷のイメージがよく分かります。泊瀬は古代の人々の葬送の地でもあったようです。「泊瀬の山あいにいつまでも漂っている雲(火葬の煙? 霧?)は、妹の霊魂だろうか」というふうに読めますが、土形娘子と人麿呂の関係がよく分かりません。謎です。さりげなく詠まれているようでいて、深く隠された何か、単なる悲しさ以上の何かを感じるのですが…。人麿呂の歌にはいつも言葉を超えた、あるいは言葉以前の、天才だけが持っていて、私たちには”未知の感情、思念”のようなもの(巨大な何か)が潜んでいるように思えます。これからおいおい考えてゆきたいと思っていますが、いまは巨大な氷山の一角しか見えません。ちなみに、この歌の碑が朝倉小学校の近くにあります。私が見たときは、校門のすぐ前の道端に建っていました(昭和47年、桜井市建立)。 筆者:堀口大学 とあり、 次のように表記されています。

古毛り久野 初瀬の山の 山のまに いさよう雲は 妹にかもあらむ

 紀貫之が『古今集仮名序』で「歌の聖なり」と書き、藤原俊成が時代を超えた「歌聖」と讃えた柿本人麿呂。しかし、彼の生涯については生没年、親兄弟など多くのことが不明です。『万葉集』が唯一、人麿呂の閲歴を推測できる根拠となります。次回からは、その厖大な歌の世界を、「言葉の森へ、ぶらっと」の感覚で歩いてみましょう。そして、人麿呂とは誰か?すこしでも見えてくればいいのだが…と思っています。

古林清嗣 (株)グループ現代・代表

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