言葉の森へ、ぶらっと。(4)

 「柿本人麻呂は、平安朝の末になると、神様として、祀られる程の尊敬をうけるようになりました。(略)実のところ人麻呂が出るまでは、短歌は、まだ海のものとも山のものともきまらないありさまでありました。この人が短歌という形を、はじめて独立さしたものと見て、まずさし支えはないと考えます。あんまりえらい人だったので、人麻呂が死ぬとまもなく、いい歌であれば人麻呂の歌だ、と考えるようにさえなって、今日残っている萬葉集の人麻呂の歌といわれているものにも、どこまで、ほんとうに当人の作物か、判断のつかぬところがあります。(略)」(折口信夫『世々の歌びと』角川文庫)
 
 一級の学者(国文学・民俗学)であり歌人でもある折口信夫(1887~1953)は、”人麻呂とは何代にもわたる柿本族の一人で、彼らは巡遊歌人(吟遊詩人)ではなかったか”と考えている。私には折口説を云々する資格はありません。ただ、この人のいくつかの著書を読み、その古代文学の精細な”研究”と驚くべき”直観”を、文句なしに信頼しています。

 ちなみに「釋 迢空」は折口の歌人・詩人としてのペンネームで、歌集『春のことぶれ』や詩集『古代感愛集』などがあります。
 生れは大阪市浪速区鴎町(当時、西成郡木津村)で、現在の繁華街・千日前からそんなに遠くありません。(生家は代々、生薬屋を営んでいた。)折口はここを”場末”と言っていたそうですが、『春のことぶれ(大阪詠物集)』の中にある「十日戎」という題の歌を見てください。

       ほい駕籠を待ちこぞり居る 人なかに、
       おのづから われも
       待ちごゝろなる

 大阪人が「えべっさん」と呼ぶ今宮戎神社が折口の生家の近くにある。1月10日は十日戎、「商売繁盛で笹もってこい!」と口々に叫ぶ人々でごった返し、「ホエカゴホイ」の掛け声とともに、「宝恵駕籠・ほいかご」に乗って南地の芸者衆が繰り出してくる。それを折口少年が”いまか、いまか”と胸をときめかせて待っている。活気あふれる群衆に混じって宝恵駕籠の行列を待ちわびる気持ちの高ぶりが伝わってきます。私は「待ちごゝろ」という言い方が気に入っています。『春のことぶれ』には、他にも生家の近くの天下茶屋や合邦が辻、四天王寺などの歌が詠まれています。生地を「場末」と呼びながら、晩年に至ってもやはり忘れがたい愛着を抱いていたのでしょう。

 「韻律・撰択・転換・喩でみていかなければ、日本の音数による詩はちょっと理解のしようがありません。(略)たとえば『万葉集』で、ぼくが最もいい詩のひとつだとおもうものに

近江(あふみ)の海
うみ
夕波千鳥汝
ちどりな
が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ
(『万葉集』卷三、二六八) 

 があります。内容をいえば、夕方の琵琶湖に夕波がキラキラしていて、波の上を千鳥が鳴きながら飛んでいるというだけで、こんなものがどうして詩としていいのか、内容があまりないではないかということになってしまいます。しかし、短歌が好きな人にはこたえられないくらい、いい詩だと感じられるとおもいます。感動しますし、いい詩だというよりほかにない。(略)千鳥の飛びざまから、夕波の立ち方から、琵琶湖の様子から、微細にみていくと、転換が著しいことがとてもよく出ているとおもいます。音数も守り、音韻のリエゾン、連音ののびやかな使われ方など、いくつもの要素をかんがえると、かなり高度なことをやっています。(略)」

 以上、(吉本隆明『詩人・評論家・作家のための言語論』メタローグ)からの引用です。吉本隆明の本を読むと、私はいつもその感受性と思考の大きさ、独自さに触れ、驚き、きれいに目を洗われ、興奮して受け売りを喋ったものです。知人から「ヨシモト病」とからかわれたこともありました。少しは冷静に読めるようになった今でも基本的には変わりません。戦後80年、詩人・思想家・評論家としての彼の業績は群を抜いていると思っています。

 吉本の「言葉の森」には、いずれ分け入ることになりますが、いまは人麻呂の「歌の森」をもう少し歩いてみましょう。

 柿本人麻呂の生涯はほとんどのことが不詳ですが、「持統・文武両天皇に仕えた宮廷歌人、あるいはそれに類した歌人集団のリーダー的な存在」というのは一応確かなようです。また「序詞・枕詞を巧みに使い、長歌の形式を完成するとともに、短歌においても抒情詩人として高い完成度を持つ歌を詠み、万葉歌人中の最高」と言われています。そして「和銅年間の初め頃、50歳ぐらいで任地石見国(島根県西部の石見地方)で死んだ」というのが定説です。いろいろ異論もありますが、「言葉の森へ、ぶらっと」では、これくらいを基本的に押さえておき、あとは気ままに人麻呂の「歌の森」を散歩することにします。国文学史的な考証はあまり得意ではありませんし、好きでもないので…。

 人麻呂の「巻向万葉歌群」と言われるものがあります。「巻向」というのは地名で、現在の桜井市大字穴師を中心とする一帯で、三輪山の北にあたるところと考えられます。三輪の金屋を出発し、北へ天理市の石上神宮まで小高い山や丘、田畑を縫って続く「山辺の道」を歩くと、やがて卑弥呼の墓ではないかと言われる長大な箸墓古墳に出会います。周辺には景行天皇陵や崇神天皇陵などの古墳群もあり、右手に三輪山の美しい姿が見え、まさに”たたなはる青垣山”の古代大和国の真ん中に降り立ったかと思えるあたり、その一帯が巻向です。「巻向歌謡群の森」を散策する前に、桜井市のホームページをすこし覗いてみましょう。人麻呂の歌をできるだけ誤りなく感じ取るために、彼がどのような背景を持っていたのか確認しておきたいからです。

 「人麻呂と巻向との関係については、若いころ穴師の里に人麻呂が住んでいたとか、恋人が住んでいて、藤原京から人麻呂がこの地に通ってきていたとか、いろいろ言われているが、櫟本(いちのもと)を柿本氏由縁の地とするならば、その南方にあたる巻向地方も、祭事歌謡に携わった柿本集団の活動拠点と考えられなくはない。現に穴師山麓に祀られた穴師大兵主神社の祭神天鈿女命(あめのうずめのみこと)は、柿本氏と縁筋にあたる猿女(さるめ)氏の遠祖であった。巻向の山並みを背に、山の辺の爽やかな小野の台地に、柿本・猿女氏らの芸謡集団が活躍した気配がある。」「藤原の都は、大和三山の真ん中に位置し、碁盤の目のように整然とした都でした。人麻呂は役所の勤めを終えると、毎夜、黒い馬に乗って人知れず都を抜け出します。香具山の北に延びる中つ道を通って、耳成山の麓で右に折れ、横大路に出ると馬に鞭が入ります。左折して上つ道をとると、三輪山の円錐が黒く大きくのしかかるように迫ってきます。初瀬川を裾が濡れないように渡り、右手に三輪の神杉のシルエットが見える頃には、行く手を箸墓の巨大な前方後円墳が遮ります。右手の山の辺の道に向かって登ると、瀬音が大きく聞こえてきます。穴師川です。この山峡の村里に愛する妻がいるのです」(参考文献:扇野聖史著『万葉の道』など)

 淡々と書かれているようですが、ちょっと不思議な人麻呂像(イメージ)が見え隠れしているように思いませんか?

 私には人麻呂の「歌の森」全体を見通す力はまだありません。「巻向歌謡群の森」に入るまで、いますこし寄り道をし、周辺の様子を見ておきたいのです。あちこち歩いてみて何かを見つけるのが、このLectureの面白いところ…とご勘弁ください。

 桜井市のホームページで気になるのは「穴師大兵主神社の祭神天鈿女命(あめのうずめのみこと)は、柿本氏と縁筋にあたる猿女(さるめ)氏の遠祖であった」といったところ。もう一つは「人麻呂は役所の勤めを終えると、毎夜、黒い馬に乗って人知れず都(藤原京)を抜け出します。香具山の北に延びる中つ道を通って」はるばると…「山峡の村里に愛する妻」に会いに行くというところです。

 まず、”天鈿女命”について—–。
 猿田彦神(さるだひこのかみ)という天孫降臨に登場する神がいます。神格は、導き(道案内)の神、伊勢の地主神 で、椿大神社、白髭神社、平野神社など各地の道祖神です。日本神話に登場する神々のうち、この神ほど詳しく”容貌、顔つき”が説明されている神さまはいません。神話によると「鼻の長さ七咫(ナナアタ=約1.2m)もあり、身長は七尋(ナナヒロ=約12.6m)近い。口と尻は光っていて、目は八咫鏡のように丸く、大きく、真っ赤な酸漿(ホオズキ)のように光り輝いている」となります。皆さんもどこかでこの「猿の化け物」のような異形の神の絵をご覧になっているかもしれません。イメージは浮かんできますよね。この猿田彦神は、日向の高千穂の峰に天降った神々のために一働きします。そのあと故郷の伊勢国へ帰ることになるのですが、このとき彼を送ってきたのが天鈿女神で、のちに彼らは結婚して伊勢国の五十鈴川の近くに住んだと記されています。天鈿女神はやがて猿田彦神の名を取って猿女君(さるめのきみ)を名乗り、猿女氏の遠祖となるわけです。猿女とは”戯る女(さるめ)”に通じ、神事芸能に関する役割を持つという意味にも解されます。『新潮国語辞典』 には「古代、縫殿寮の属し、大嘗祭・鎮魂祭などの神事に舞を奉仕する女官」と説明されている。

 また、猿田彦神は山の神、日の神として民族信仰と結びつき、豊饒をもたらす農耕神的な側面を持っています。さらに邪霊を防ぐ道祖神(道の神、境の神でもある)としても庶民の信仰の対象となり、いまでもたまに田舎の道ばたや山道に性器を刻んだ男女の石像が立っているのを見ることがありますが、これはかつて人々が良縁、下の病、子宝、安産、子育てなど性に関係するさまざまな願いごとを道祖神にお祈りしたことを示している、と言われています。

 こうした由緒をたどることができる”天鈿女命”が、「柿本氏と縁筋にあたる猿女(さるめ)氏の遠祖である」ことと、人麻呂が宮廷の神事に際し多くの長歌・短歌を詠んだこととの間には、何か関係するものがあるのだろうか?

 このような疑問を持つことは決して学術的な姿勢とは言えないのですが、しかし、「研究の表現に創作的態度を重じて…」という折口信夫の言葉「皆”将来欲”のないもので、現在の整頓の上に一歩も出て居ない、おひんはよいが、文学上の行儀手引きです。もっと血みどろになった処が見えたら、我々の為になり、将来・・せられるものがあった事でせう」(「好悪の論」より)に促され、少し我流に考えてゆきたい、と思っています。(この項つづく)

古林清嗣 (株)グループ現代・代表

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